このブログでは、沖縄へは、
かつて4回出かけております。
那覇での泡盛集めやら観光やら沖縄そばやら(那覇・首里)
石垣島での泡盛集めと聖地巡礼と
南の島で、祈りと参りと酒集めと(宮古島)
沖縄での泡盛集め2025(名護)
今回、徘徊したのは、
南部。
泡盛集めのみならず、
先の大戦で命を失くされた方々の追悼施設を巡ってまいりました。
昨今では、今まで自分が正しいと信じてきたことを共有できる人たちが少数派になりつつあるように思います。
平等だとか、人権だとか、共助だとか、平和だとか、
とくに、平和に関しては、その尊さを脅かす例が内外双方にて顕著であることこの上ない。
その具体例に触れると、特定の人物を批判することになりかねませんので、やめておきます。
あくまでも、
自分が信じていた“平和の尊さ”を確認したくて、
出かけてまいりました。
☆★2025年10月25日(土)☆★
京成成田スカイアクセス線アクセス特急に乗って、
成田空港(千葉県成田市)に到着。
成田空港からは、
peach8:15発那覇行MM503便に搭乗。
成田は雨ですが、
かの地の天候やいかに?
飛びます、飛びます!(坂上二郎さんより)
いいえ、もう飛んでいます。
そりゃ雨が降っているんだから、
雲の上に出ても何も見えやしない、見えやしない。
時刻は午前9時前ですが・・・。
あー、ダメ人間だダメ人間だ!
飛行機に乗ると朝9時前でも平気で飲み始めて隣の席のションベン臭ぇ小娘に引かれ気味のアル中ハイマー型ダメ人間だ。
飲むとすぐに寝てしまう酔っぱらい。
気が付くと、着陸態勢に入っておりましたよ。
残波岬の南側には、嘉手納基地。
その西側の海岸が、1945(昭和20)年4月1日に米軍が上陸した場所ですね。
今回の旅で徘徊する場所が見えてまいりました。
今日は、この辺りを徘徊します。
そうこうしているうちに、
那覇空港(沖縄県那覇市)に着陸。
那覇空港からは、バスに乗車。
バス停で待っていると・・・・、
バスがいなければ、
バス停でも平気で人を乗り降りさせるのね、うちなんちゅは!
那覇空港からは、12:45発空港あしびなー線に乗車。
前面展望イェ~イ!
(ガキか!)
渋滞にはまりましたが、
一時的なものでした。
25分くらいで、あしびなーバス停に到着。
あしびなーってのは、アウトレットモールの名前らしい。
カンカン照り!
しかもかなり暖かい!
だから、
齢50を過ぎた酔っぱらいでも、
山下清スタイルで徘徊できたのでした。
その裸の大将が最初に立ち寄ったスーパーで、
さんぴん茶と、美しき(うるわしき)古里の前割りとをGET!
あしびなーから南へ歩いて、
道の駅豊崎(沖縄県豊見城市)へ到着。
JA直営ってのは期待大。
沖縄では、道の駅とJAとは、その地域で造られている泡盛の取り揃えがよいのです。
逆にご当地スーパーは、どこへ行っても同じものばかりで辟易。
道の駅豊崎でこれらをGET!
腹が減ったと思ったら、
時刻は12:40。
お誂え向きに、食堂がございましたよ!
沖縄県上陸を祝して、沖縄そば!
くわっちーさびら(いただきます)。
でーじまーさん!(とてもおいしい)
かつお出汁の風味が口の中でふわっと広がって鼻へ抜ける!
食べ応えのあるしっかり麺。
これも沖縄そばらしさかな。
沖縄のかまぼこって、なんでこんなに赤坂小町?
じゃなかった、プリプリなの?
三枚肉は柔らかい。
あー、おいしかった!
くわっちーさびたん(ごちそうさまでした)。
沖縄そばでクンチ(根気:スタミナ)をつけたところで、
さらに南へ徘徊した酔っぱらい。
ベニデマリ?
サンタンカ?
どちらか区別はつきませんけれど、
沖縄ならではの街路樹ですね。
報得川高架橋を渡る酔っぱらい。
都会にある河口なのに、こんなにきれい!
その河口を、
観光客を運ぶ飛行機が次々と横切って行ったのでした。
報得川高架橋を渡って、
糸満市に入った酔っぱらい。
まさひろ酒造さんの、
まさひろギャラリーを訪問。
旧社名の表示も残っているのね。
坂口謹一郎博士が泡盛を紹介した論文の題名ですね。
松尾様に二礼二拍手一礼。
蔵の中を窺うことができました。
「泡盛臭い!」と騒ぐ人もいましたが、あたしゃな~んにも匂わなかったよ。
その他には、ちょっとした展示品がございました。
見学をさっさと済ませて、
試飲だ!、試飲だ!
有料試飲は、500円で2回できるシステム。
まずは、10年古酒。
まろやかですが、アルコールのスーピリはありますね。
続いて、10年古酒の樽貯蔵酒。
口当たりは同じ。
やはり樽の香りがついて、軽めのウィスキーみたい。
無料試飲もあるでよ。
水割りにしてみました。
スーピリ引いて風味ハッキリ!
やはり泡盛は、割ってこそ風味が映えますね。
最後はプレミアムブレンド。
これも水割り。
風味しっかりなのに角や重さがまったくない!
これが一番おいしいかも。
少量瓶は取り扱いがなかったので、泡盛サワー缶をGET!
島唄50ml瓶(右)は、Websiteで訪問を知らせておくといただけるやつ。
まさひろギャラリーを後にして、さらに南へ。
道の駅いとまん(沖縄県糸満市)。
JAのほうには、成果なし。
おかしいな?、と思い、
お店の人に聞いたところ・・・、
奥に店がもう一つあるんだってさ。
そちらのほうで、首里天(すいてん)とまさひろとをGET!
双方とも、既出なんですけれどね。
暫時休憩。
報得川に架かる西崎南橋を渡る酔っぱらい。
澄んではいないものの、イヤなにおいはしない。
それどころか、やはり風が涼しくてきもちいい。
スーパーで、久米島の久米仙のアルミパウチ500mlをGET!
“ブラック”なる、古酒ブレンドなんだってさ。
ファミマ企画モノをお高め(¥980(税込)/1本)ながらもGET。
こういうのがあるから決して侮れないのですよ沖縄ファミマは。
ホテルに到着。
今回はここに連泊します。
窓からの景色はビミョー。
っていうか、隣家の窓が近い!
頃合いを見計らって繰り出そうとしたら、
雨が降って来やがった!
この日のお店は、
魚町屋ぶぶかさん。
2時間飲み放題を所望。
まずはオリオン。
お通しはマカロニサラダ。
すぐに出た!
ジーマーミー豆腐。
弾力がすごい。
自家製で、30分間練り続けるんだってさ。
オリオンをさっさと空けて、泡盛へ。
“夢航海”の水割りは、かなりさっぱり。
でも黒麹の香ばしさと甘みとをほんのりと感じます。
ゴーヤーチャンプルー。
歯ごたえほどよい。
苦みがすがすがしいのは、軽く茹でてから炒めるからなんだってさ。
島豆腐は、大豆の味が濃くておいしい!
豆腐がおいしいとお伝えしたら、
豆腐だけ食べてみて!、と頂戴しちゃいました。
おいしいに決まっているじゃないですか!
もういいじゃないですか!(日景忠男より)
2杯目は、残波黒水割り。
減圧蒸留だからか、かなりさっぱり。
かつ辛口で、キリっとしていました。
アスパラチーズ春巻。
アスパラガスのうまみがチーズに決して負けていない。
ピリ辛タレがいい感じ。
3杯目は、島唄水割り。
米の風味がしっかり。辛口で甘みは弱めながらもじんわりと感じました。
チェイサー代わりのさんぴん茶。
飲み放題だから、こういう注文もできちゃいます。
4杯目は、宮古島の菊の露水割り。
しっかりどっしり、割っても飲み応えバッチリ!
島らっきょの天ぷら。
衣サクサク、らっきょシャキシャキ。
これはかなりうまいね。
くわっちーさびたん(ごちそうさまでした)。
勘定をして帰ろうとしたら、泡盛の記念ボトルをご店主から賜った酔っぱらい。
こんなに貴重なものはさすがにもらえないと遠慮したものの、心の底からありがたく頂戴いたしました。
魚町屋ぶぶかさん。
いっぺーにふぇーでーびたん(どうもありがとうございました)。
こうして、
糸満市西崎での一日目は、暮れていったのでした。
☆★2025年10月26日(日)☆★
二日目の朝。
天気予報では、
朝の降水確率は20%でしたが、
その20%にまんまとはまって降られてしまった酔っぱらい。
晴れているのに降ってんの。
いやがらせかよ!
西崎入口バス停から、
バスに乗った酔っぱらい。
次のバスは、7:19発のはずなのですが、
ぜんぜん来やしない!
15分ほど遅れてご到着。
前面展望イェ~イ!
(ガキか!)
糸満バスターミナルにて下車。
糸満バスターミナルにてバスを乗り継ぎ。
次のバスは、8:40発でしたが、
出発時刻まで余裕があったので、
付近の海辺を散策いたしました。
底が見えるほど水がきれい。
小魚もそこそこいて、鷺(足が黄色だからコサギ?)が狙っておりました。
さらに歩いていると、
雨があがりましたよ!
にゃんこご登場!
かわいい女の子。
触らせてくれましたが、動きが素早くてその瞬間を撮影できず。
遊んでくれて、
にふぇーでーびる(ありがとう)。
糸満バスターミナルに戻って、
バスに乗った酔っぱらい。
25分ほど乗って、
具志頭(ぐしちゃん)バス停にて下車。
南の駅やえせ(沖縄県島尻郡八重瀬町)へ。
成果ゼロ!
八重瀬町産の“南光”があると予想して来てみたものの、少量瓶の取り扱いは皆無。
ですがサーバルキャットのTシャツに一目惚れしてGET!
隣にマックスバリュエクスブレスがありましたが、ここでも成果はなし。
まだ朝の9時台でしたが、
飲まなきゃやってらんね~さ~!
具志頭バス停に戻り、
来た道を引き返したのでした。
前面展望イェ~イ!
(もう酔っぱらったか。)
平和祈念堂入口バス停にて下車。
平和祈念公園へ。
今回の旅の、目的地の一つです。
とにかく広い平和祈念公園。
全部を回ると半日くらいかかってしまいます。
それ故、特に見ておきたい場所だけを攻略し、その解説と感想とを長々と書きました。
まずは、海岸近くにある、
ガジュマルの木。
このガジュマルの木は、戦前からここにあるそうです。
そしてこの場所では、銃弾や砲弾の破片が見つかることが多いのだとか。
その理由に関して、文献には以下の記載がありました。
「ここは遺体の集積場、焼却場だったんです。」(※1)
「まず日本兵の証言ですが、ここで亡くなった日本軍兵士を荼毘に付していた、つまりここで遺体を焼いていたというのです。」(※1)
「遺体にかなりの割合で、銃弾や破片が身体に止まっているわけです。(中略)この辺りに亡くなった方の遺体が焼けていく、積み上げられている遺体が腐っていく過程で、身体に食い込んだ銃弾、破片が下にこぼれ落ちたと考えてもいいでしょう。それがこの辺りで銃弾・破片が見つかる、つまり密度が高い理由と考えても、あまり間違いはないと思います。」(※2)
私も探してみましたが、それらしいものは見つかりませんでした。
ここで多くの遺体を荼毘に付したことを解説したものは、なにも無し。
来訪者に広く知ってもらうべく、説明版を設置したほうがよいのではないでしょうか。
次に、
“ギーザバンタが見える丘”へ。
ここから見えるあの崖が、
ギーザバンタ。
ギーザバンタは、米軍に北から追い詰められた県民が最後に到達した南端の場所。
最後に到達したということは・・・、
「あの特徴ある岬をギーザバンタと呼びます。ギーザというのは、あの岬の向こうにある集落(慶座(ギーザ)集落)の名前です。バンタはウチナーグチ(沖縄言葉)で崖という意味です。」(※3)
「ここが戦場になったのは沖縄戦最終盤ですから、米海軍は多くの艦艇をこの海に集めていました。米軍はあの岬を「スーサイド・クリフ」と呼んでいました。スーサイドは自殺、クリフは崖。つまり「自殺の崖」と呼んでいたのです。あの崖から多くの人が自殺をしていたというのです。ギーザ集落の人は「人がこぼれ落ちるように落ちていた」と言っています。」(※4)
なぜそんなことをしたのか?
皆様ご存知のとおり、当時の沖縄県民のみならず日本国民は、
「鬼畜米英!」
「捕まったら男は八つ裂きに、女は凌辱され、殺される。」
と教えられてきたからという説が一般的でしょう。
一方で今回、私は、沖縄戦を勉強してみて、とある文献の記述に出くわしました。
それは、
“鬼畜米英の発想は、日本軍自身が犯した行為によってもたらされた”
というもの。
いささか長めですけれど、その記述をここに紹介いたします。
「 中国との戦争から沖縄に帰ってきた兵士たちはその体験を口々に周りの人たちにしゃべった。中国人を妄りに殺害したり強かんしたりした経験が語られ、敵に捕まれば自分たちもそうなるのだという認識を沖縄の人々に広げることになった。
中国に送られた日本軍の兵士たちは最初に、捕まえてきた中国人を銃剣で刺殺する訓練をやらされたが沖縄出身兵も同じだった。一九四一年に入隊した〇〇さん中国で「縛った支那人捕虜」を銃剣で「突き刺す訓練」をやらされた(北谷町『戦時体験記録』七一九頁)。
たとえば一九三七年から三年間華北に派遣された△△さんは、中国のある集落で八人の青年を引っ張り出してきて田んぼに並べて日本刀で首を刎ねたこと、「青年たちの手足を縛り上げて転がし、藁を少々かぶせて火をつけ、死ぬまで焼いたりもした。さらに、竹の先を火に焙り、そこに油を塗った竹槍で、裸にした現地の青年を何分で殺せるか試したりもした」など「実に野蛮で、残酷な振舞をした」ということを語っている(西原3・七九八頁)。「敗残兵を捕まえて手を後ろにしばり、並べて座らす。それにガソリンをかけて、紙に火をつけ投げる。すると三分ほどで焼け死んでいた」ということを◇◇さんは振り返っている(北谷5上・六九三頁)。
日本軍でさえもこんな残虐なことをするのだから「鬼畜」の米軍ならもっとひどいことをするだろうと、敵への恐怖心を煽ることによって軍への協力に駆り立て、捕虜になるくらいなら死ぬように仕向けていくことになった。」(※5)(実名は伏せました。)
その真偽は、いざ知らず。
海は静かでしたが、ギーザバンタの近くだけはなぜか白波が。
何かを語りかけているように感じ、頭を下げ続けないわけにはいきませんでした。
ギーザバンタが見える丘から振り向くと、
そこにあるのは、“平和の火”。
普段は点灯させていないものの、平和祈念式典(毎年6月23日)と、その他平和に関する式典がここで開催される際には、この地下で保存されている火種から火を受けて点灯させているのだそうです。
その火種は、「沖縄戦最初の上陸地・座間味村阿嘉島で採取した火と、被爆地広島市の「平和の火」および長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯し続けた火」(※6)であって、阿嘉島で採取した火は「古式にのっとり太陽の光から採った火」(※7)なのだとか。
平和の火の下には水が張られており、その水中に地図が描かれています。
平和の火がある場所が沖縄、沖縄を中心して描かれた地図。
穿った見方かもしれませんけれど、この平和の火を中心として描かれた地図の意味について言及した記述がございました。
「 ところでこの噴水の池の中の地図は何を表しているのでしょうか。ボクらの仲間(大阪大学大学院准教授)の調べによると、想像した人が考えたのは「大東亜共栄圏」を示しているということでした。そして、その円心は「大東亜共栄圏」の中心に当たります。かつての侵略ラインに対するアンチテーゼとして「平和の火」はその中央にあるわけです。
ある意味では暗号のように埋め込まれたメッセージと解していいと思います。
しかし日本が目指した「大東亜共栄圏」を意味するとしたら少し狭いですね。」(※8)
平和祈念公園でワタクシがもっとも関心があったのがここ、
“平和の礎(へいわのいしじ)”
国籍を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々(沖縄県出身者に限っては、満州事変に始まる15年戦争の期間中に県内外で戦争が原因で亡くなった人を含む。)を刻銘することを目的とする平和の礎。
現在もなお、亡くなった人が新たに判明した場合には追加で刻銘がなされているそうです。
なぜ、そんなことをするのか。
その理念は3つ。
(1)戦没者の追悼と平和祈念
(2)戦争体験の教訓の継承
(3)安らぎと学びの場
と、これだけを聞いても「へぇ~。」で終わり。
そこで、理解を深めるべく、文献の記述を引用してみました。
「「平和の礎」は慰霊碑ではなく、沖縄戦で犠牲になった人々の氏名を刻銘し戦争のない平和な社会の発展を願う記念碑である。」(※9)
「20数万人が死没した沖縄戦の戦場の跡を再現する方法として、空や海や陸で戦争死没した人たちの氏名を一堂に刻銘することによって、これが沖縄戦の結果だ、と一目瞭然化することになったのである。人間に二度と戦争をさせない方法は、白骨累々たる戦場の跡をそのままにしておけば、そこでは、戦争を起こすことはできない。それは物理的にもできない。」(※10)
「いまや、24万余人の人々の白骨を想像し、身の毛もよだつような戦争の恐ろしさを体感することもできる。」(※11)
「「平和の礎」は、戦争の加害者・被害者、敵・味方の区別もなく、戦場そのものを再現するものだ」(※12)
これが“戦場そのものの再現”です。
とくとご覧あれ。
中には、花を手向けてあるものもございました。
ここに刻銘されている方のご遺族がなさったものでしょうか?
ところで、
刻銘板を見ていると、
名前がはっきりしていない方々の刻銘があることに気づきます。
これはあえて名前を伏せているわけではございません。
沖縄県はこの平和の礎を建設するにあたって、既存の戦没者名簿に頼ることなく、県内で県民一人ひとりから一斉に聞き取り調査をしました。
そこで判明した戦没者はもちろん、ここに刻銘されています。
しかし、それでも名前がわからなかった方が存在したのです。
沖縄戦は、後述の“鉄の暴風”が荒れ狂った戦争でした。
それ故、米軍が蹂躙した土地は何もかもが焼き払われ、焦土と化したのでした。
当然のことながら、
役場は全焼、戸籍も全焼。
また一家は全滅。
一家どころか、集落全体が壊滅状態。
それ故、偶然にも生き残りかつご存命だった方々に戦没者の聞き取りをしても、亡くなったことは確実でも名前がわからない人が少なからずいたのでした。
その人が当時生き、そして亡くなったことを事実として残すべく、このような刻銘が存在するのだそうです。
要するに、綿密な聞き取り調査の成果でしょう。
平和の礎。
ワタクシは、精神的にかなり圧倒されました。
こんなに大勢の人たちが命を落とした事実。
我々は、この事実をけっして忘れてはなりません。
多くの人にここへ訪問してもらい、戦場を再現した平和の礎の意味を理解していただきたいと、心の底からそう思います。
時刻11時前でしたが、
腹が減ってまいりました。
沖縄県産(ぐしけんパン)のカレーパンを、さんぴん茶とともにいただきました。
こうして、
平和祈念公園を後にした酔っぱらい。
平和祈念堂入口バス停から、
さらにバスに乗って、
姫百合の塔前にて下車。
そこにあるのは、もちろん、
“ひめゆりの塔”
入口の近くでは、大きなガジュマルの木が気根を伸ばしておりました。
これがひめゆりの塔。
沖縄戦の最中に徴用された“ひめゆり学徒隊”(沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校との生徒・教師によって編成された看護部隊)の慰霊碑であることは、言わずもがなでしょう。
これは、初代のひめゆりの塔。
初代の塔と共にあった銘板かな?
ひめゆりの塔の前には、
うちなーぐちで“ガマ”と呼ばれる壕/洞窟があります。
戦時中、このガマの中には陸軍病院第三外科壕が設置されておりました。
ひめゆり学徒隊はここで最後の活躍を見せたものの、1945年6月18日、戦局の悪化によって解散命令が出され、この外科壕を閉じることになったのでした。
しかし、彼女たちの多くは、このガマから出ることができなかった。
「次の日の19日にはここへ米兵がやってきて、「投降」つまり捕虜になれと呼びかけます。
それに応答をしないでいると、3回のガス弾攻撃がありました。3回ですから、少なくとも3発以上のガス弾が投げ込まれたという意味です。ガス弾とは今から考えれば黄燐手榴弾です。
普通の手榴弾とは違って、ガマから日本兵や住民を追い出すために使う兵器です。中に液体とも固体ともつかぬ「黄燐」という物質が入っていて、それが飛び散り、皮膚に付くと骨まで焼けていくといわれています。その黄燐手榴弾が爆発するとき、催涙ないしは窒息性のガスが出ます。」(※13)
こうして「ここに入っていた約100名の病院関係者・軍人や一部住民も入っていたそうですが、その内85名が亡くなります。その中で教師4名、生徒38名が「ひめゆり」の人たちで、「ひめゆり」の生存者は8名でした(沖縄戦が終わって生きていた方は5名)。」(※14)とのこと。
でもね、
投降を呼びかけられるよりももっと前に、米軍の陸上部隊が近づきつつあることはわかっていたはず。
それなのに、どうしてガマ(壕)から出て逃げようとしなかったのでしょうか?
逃げた人はいたそうですが、多くはここに残ったのだとか。
そもそも、なぜこんなガマに隠れていたのでしょうか?
その理由を理解するためには、
“鉄の暴風”
という言葉の意味を理解する必要がございます。
“鉄の暴風”について、文献には以下の記述がございました。
「沖縄戦は「鉄の暴風」が吹いたといわれています。(中略)鉄片、つまり大小の砲弾爆弾、迫撃砲弾、手榴弾、機関銃弾、小銃弾などが、まさに鉄片が暴風のように飛びかったのです。」(※15)
「連合軍が撃ち出した、ないしは投下した大小の各種砲弾、爆弾、手榴弾、機銃弾、小銃弾など、その数は合わせて千数百万発になるとのデータがあります。沖縄の人が「一番怖かった」という軍艦からの砲弾だけでも60万発も撃ち込まれているのです。その60万発の艦砲弾のうち72%が5インチ砲弾なのです。5インチ砲弾、直径12.5センチ、長さ50センチ位の砲弾です。
(中略)
ところで一番たくさん撃ち込まれた5インチ砲弾の場合、(中略)半径230メートル、直径460メートルの範囲に飛び散るのです。数か月前に、ボクが今日これから行く摩文仁の平和祈念公園で50キロ爆弾が見つかりました。500キロ爆弾ではなく50キロ爆弾ですよ。それが爆発してどれだけの範囲に破片が飛び散るか、半径400メートル、直径800メートルです。250キロ爆弾にいたっては半径700メートル、直径1・4キロです。」(※16)
「5インチ砲弾でも、直径460メートルにわたって破片を飛び散らして人を殺傷するのです。(中略)また別のデータがあります。米軍が読谷、嘉手納、北谷の西海岸に上陸したときに撃ち込んだ砲弾爆弾は一坪当たり1発、それが最終盤の南部では一坪当たり70~80発撃ち込まれたといいます。」(※17)
“鉄の暴風”の意味、おわかりいただけましたでしょうか。
沖縄戦では、ガマの外へ出ることは鉄の暴風に当たること、すなわち死を意味していたのです。
それ故、ガマの中に外科壕が設けられ、しかもガマから外へ出ることができなかったのです。
ひめゆり学徒隊のみなさんは、この鉄の暴風をあらかじめ知ってここへ来たわけではございません。
野戦病院の手伝いを命じられて戦場へ向かったら、はからずもそこは鉄の暴風が吹き荒れる場所だったのです。
それに彼女たちはこのとき、15歳から19歳の少女ですよ!
もし自分がひめゆり学徒隊であったならば確実に狼狽し、そんな場所で看護の仕事を全うできる自信はまったくございません。
こうして、沖縄戦では、
「日本軍は、南部戦線で軍民混在となって戦争をつづけたのです。このために死ななくてもいい多くの人たちが死んでいったのです。」(※18)
とのことでした。
しかもその数は、日米両軍人と日本の民間人とをあわせておよそ20万人と言われております。
しかしこの数字も怪しいところで、実際にはもっと多くの人、とくに沖縄県民が犠牲になったとする見解もあるようです。
「 沖縄戦における戦没者の概況は別表のとおりです。沖縄県援護課の調査によれば日本軍人の死者と一般住民の死者がほぼ同数となっています。一般住民の犠牲者(別表に“約94,000人”とあり:ブログ筆者追記)は概数でしか示されていませんが、これは激戦地の調査だけで疎開や飢え死に、集団自決、日本軍による虐殺、などが十分に調査されていないためで、それらをすべて数えあげると、県民の犠牲はおそらく十五万人を上回るであろうと推定されています。」(※19)
ひめゆりの塔の脇には、
ひめゆり平和祈念資料館があり、ひめゆり学徒隊の記録を公開しています。
中は撮影禁止。
見学を終えた後、ワタクシは、
涙が止まりませんでした。
特に、
最後の展示室。
そこには、亡くなった方々の遺影と共に、名前、そしてその人の性格、気質、趣味や活動などが、わかる範囲で簡潔に書かれておりました。
それを読むと、亡くなった人一人ひとりの具体的な人物像を想像できてしまうのです。
その人が、戦争に巻き込まれて命を失くしただなんて、ものすごくやりきれない。
私が見学を終えると、
修学旅行生でにぎわい始めたひめゆりの塔。
この場所は、修学旅行で訪問するにふさわしい場所だと思います。
どうか皆さん、大いに学び、大いに悲しみ、そして戦争という愚行を二度と起こさないようにしてください。
心の底から、そう願います。
ひめゆりの塔の見学を終えた酔っぱらい。
隣にあった土産物店で、
南光100ml瓶を無事GET!
ただしセット商品だったので、しかたがなく龍泉とまさひろとも抱き合わせ購入。
姫百合の塔前バス停から、
さらにバスに乗った酔っぱらい。
真栄里入口バス停にて下車。
スーパー2軒を懲りずに攻めてはみたものの、
案の定、成果は皆無。
歩いていると、水辺を発見。
マングローブだね。
近くへ行ってみると、
トビハゼやら、
シオマネキ(もっとたくさんいたけれど隠れちまった)やらがいましたよ。
成果のないまま、
糸満郵便局前バス停からバスに乗って、
ホテルへ向かったその途中、
またしてもにゃんこ発見!
しばらくその場にいたら、
向こうから来てくれちゃった!
チャーミングな女の子。
遊んでくれてありがとうね。
ホテルに戻った酔っぱらい。
繰り出すにはまだ早い時刻だったので、
スーパー物色を兼ねて、近くにあった公園を散策。
気根が長いガジュマルをくぐると、
モモタマナ。
枝が横に広がるから、日陰を作るために植えられるんだってさ。
(“おきなわフチ歩き”より)
これが実。
これが種。
水に浮くから、海を渡るんだってさ。
このガジュマルも大きい。
気根を伸ばして居心地が良い場所を探し、そこで根を下ろして移動するんだってさ。
(“おきなわフチ歩き”より)
居酒屋の縄暖簾みたい。
スーパーで、“アンチョビーナンプラー”を発見!
正田醤油(群馬県館林市)製なのに、千葉じゃ見たことがない!
散策と物色とを終えた酔っぱらい。
ちょうどよい頃合いになりました。
今日は、“七段”さんへ。
「沖縄で宮崎料理かよ!」
って思いますが、それもまた面白そうだったので。
昨日に引き続き、
2時間飲み放題コースを選択。
まずはビールとお通し。
サントリー香るエール。
ビールをさっさと空けて、泡盛へ。
久米仙ブラウン水割りと、さんぴん茶。
やっぱりクセなくさっぱりだけれど、その中にも米の風味と黒麹の香ばしさとを穏やかに感じます。
今日もゴーヤーチャンプルー。
七段さんのゴーヤーチャンプルーもおいしい。
毎日食べてもけっして飽きません。
これはネット予約者へのサービス。
チキン南蛮です。
お肉やわらかくてジューシー!
タルタルちょいピリ辛で泡盛を呼ぶ味。
サービスのチキン南蛮がおいしくて泡盛が進むこと進むこと!
二杯目の琉球王朝水割りは、香り華やかで風味に厚みを感じ、かつうまくまとまっていておいしい!
最後の料理が登場間近なので、
三杯目の島唄水割りとさんぴん茶おかわりとを準備。
島唄は久米仙ブラウンよりもかなりさっぱりでスイスイ行ける危険な泡盛。
せせり(鶏のノドの肉)の炭火焼。
ちょいコリコリで適度な噛み応え。
噛むごとにうまみを感じる、おいしい!
あー、おいしかった!
くわっちーさびたん(ごちそうさまでした)。
こうして、
糸満市西崎での二日目は、暮れていったのでした。
☆★2025年10月27日(月)☆★
最終日。
帰りたくない!
洗濯物と共に、昨日までの成果を梱包し、
先にお帰りいたきました。
西崎入口バス停より、バスに乗って、
最後の前面展望イェ~イ!
(もうええわ。)
小禄駅前(沖縄県那覇市)にて下車。
小禄駅前へ来たのは、イオンに立ち寄るため。
忠孝を見つけてGET!
小禄駅前からは、ゆいレールに乗車。
一駅だけ乗って、
赤嶺駅(沖縄県那覇市)にて下車。
スーパーで、
ポーク(ランチョンミート)を入手。
ちょっと時間があったので、
人目を気にすることもなく暫時休憩。
街路樹を観察。
葉はネムノキみたいですが、花がぜんぜんちがう。
ホウオウボクだってさ。
こちらはササゲのお化けみたいな実がぶら下がっている。
Googleによれば、
ナンバンサイカチだってさ。
そろそろいい頃合い。
酒のスマイルへ!
10時開店と聞いて待っていましたが、
10時前に開いていたよ。
これらをGET!
酒のスマイルさん、この趣味で沖縄を訪問する際はけっしてはずせません。
赤嶺駅へ戻った酔っぱらい。
ゆいレールに乗って、
後方展望を楽しみながら乗りつつ、
牧志駅(沖縄県那覇市)にて下車。
向かったのはもちろん、
国際通り。
今回は、ちょっとおもしろい場所へ行こうという魂胆です。
それがここ。
あれ?、公道のはずなのにフェンスが・・・。
行けるところまで行ってみよう。
怒られたら謝ろう。
国際通りを南へちょっとだけ入った場所には、
亀甲墓があるのです。
どうやら戦前からあるらしい。
だからよく見ると弾痕があるそうですが、
苔むしたせいか判別できず。
どうやら現役みたい。
門中の皆さんが今でも管理なさっているのでしょうね。
この亀甲墓の奥にもお墓がある、という情報がございました。
しかしそこでは、重機を入れた工事の真っ最中。
それ故に、入口にフェンスがあったのでしょう。
国際通りへ戻った酔っぱらい。
途中で“南(ハイ)どなん”を見つけてGET!
むつみ橋通りへ向かって、
あんつくさんへ。
八重山地方の泡盛が豊富なお店。
まずは白百合水割りから。
けっこうクセ強い!、でも重くはない。
豆腐よう。
これが豆腐だったとは思えないほど濃厚。
チーズだね。
2杯目は、請福ソーダ割り。
香ばしくて重いけれど、ソーダがいい感じに和らげてくれるのね。
島らっきょ。
酸っぱくなくて、野蒜やエシャレットみたいな感じ。
さっぱりしていていいね。
3杯目は、琉球王朝ソーダ割り。
ソーダ割りだと厚みが和らいでしまう。
水割りのほうがよかったと思います。
4杯目は、宮の鶴ソーダ割り。
クセないのにしっかり米の風味でおいしい。
濃いめ(サービス)故か?
もう一杯(5杯目)“於茂登ソーダ割り”を飲んだらしいけれど、写真はなし。
手元のスマホには「軽さの中に風味しっかり、重くはなく辛口でキリっとしている」とメモが残っておりました。
〆は、八重山そば。
雑味のないきれいなスープ。
含むとかつお節の香りがガツンと来て、鼻へと抜けていきました。
麺は噛み応えしっかりの太麺。
かまぼこはやっぱりおいしいね。
くわっちーさびたん(ごちそうさまでした)。
あんつくさん、大満足のお店でした。
国際通りを歩いて、ゆいレール県庁前駅へ向かった酔っぱらい。
途中で入手しつつ、
南光は、別ラベルのものがありましたよ!
県庁前駅からゆいレールに乗って、
那覇空港からpeachに乗って、帰ったとさ。
☆★2025年10月29日(水)☆★
荷物が到着。
めでたし、めでたし。
●●●あとがき●●●
(長いので、読みたい人だけお読みくださいな。)
今回の徘徊では、
平和の礎とひめゆりの塔とを見学することを主たる目的としておりました。
双方の見学を終えた私の感想を、ここで披露させていただきます。
私は、心の底からこう思います。
“こんな惨劇は、”
“けっして繰り返してはならない。”
そのためには、
たとえどんな相手とであっても“対話”を厭わず、関係と相互理解とを深めていかなければならない
と。
“対話”に関しては、
昭和史がご専門となされるノンフィクション作家の保坂正康さんは、1933(昭和8)年2月に日本が国際連盟を脱退したことをふまえ、日本は自ら対話を拒否して孤立し、それが開戦へつながる一因となったと評されておられます。
「結局この脱退というのは、言葉は少しきついけれど、外交関係やさまざまな政治的関係においては、ある種の鎖国状態に入ることを意味していたと思います。国際連盟という場を持っていれば、日本は五大国の一つとしていろんな意見を言えますし、国際的な意思表示もできるわけです。それを脱退するということは、国際的な発言の場をみずから拒否してしまったことになります。もし日本の考え方を聞きたいのであれば、東京へ来て話を聞けというふうになりますから。
(中略)
外国のメディアは東京へわざわざ来ませんよね。そうすると、中国との関係でみると一番わかりやすいですが、中国のプロパガンダが一方的に国際社会の中で大きな力や意味を持つようになってしまいます。日本はそれについて、ほとんど国際的な発信ができなくなる、つまり、孤立するということです。」(※20)
「 これは、のちに原子爆弾の研究で知られる理化学研究所の仁科芳雄博士のグループの人に聞いた話ですが、国際連盟を脱退したために、アメリカやイギリスと学術書の交換ができなくなり、ドイツを通じて入手するようになったと言います。
そうした学術関係の交流の途絶が、どの程度広がりがあって、どういう影響があったのかはよくわかりませんが、国際的な孤立というのは、単に政治的な意味だけではなくて、文化的・学術的に、いろいろなところで孤立するという状況につながったのではないかと思います。」(※21)
対話と国策との関係について、
戦前の例で恐縮ですが、歴史上の例を挙げます。
事の善悪当否は別としてお考え下さい。
ⅰ日露戦争は勝てたのに、太平洋戦争は負けた。
:日露戦争では日英同盟がロシア艦隊の弱体化にうまく作用し、かつ 頃合いを見計らって判定勝ちを宣告する仲裁役をアメリカにお願いしてあったが、太平洋戦争ではそういうことはいっさいなかった。
ⅱ韓国併合は認められたのに、満州事変は認められなかった。
:桂・タフト協定や第二次日英同盟改定、日露協約で米英露と互いの利権を認め合っていた韓国併合に対して、満州事変は関東軍の独断専行(政府がそれを追認)。
ⅰⅱとも、
「あらかじめ対話が成立していたか否か」が、成否を分けた事案。
当時においては、我が国が他国との対話の場に留まることは国益を守るために必要不可欠だったことがわかります。
ただしⅰⅱの成否を分けたのは対立する当事者間での対話ではなく、事を有利に運ぶための関係諸国への根回し。
それでも基本はやはり、国益の対立が予想される当事国同士の積極的な対話によって、関係の深化と相互理解とを進めることが大事だと思います。
先の大戦では、日本にとって米国は海軍が仮想敵国としつつも、当初は利害が直接に対立する相手ではありませんでした。
しかし日本が「満州事変→日中戦争→仏領インドシナ進駐」と事を展開させたことで中国や比島における米国の権益が次第に脅かされ、それが米国に在米日本資産の凍結や石油や鉄くずなどの対日禁輸をさせて両国間に利害対立を生ぜしめ、その利害対立を解決し得なくなった日本が戦争の火ぶたを切ったのですから。
そしてこの間、両国間では大使を介した接触はあったものの、首脳や閣僚級の会談はなかったのですから。
一方で21世紀においては、新たなる“覇権主義大国”が経済力と軍事力とをフル活用し、既存の国際秩序を紊乱しつつございます。
その“覇権主義大国”と我が国とは、はたして対話によってわかり合えるのでしょうか?
ものすごく難しいでしょう、それが成功することを想像し得ないほど。
しかし、我が国がかつて対話を拒否して周辺国に対して為したことを“国策の誤り”と評価するならば、我が国がその大国との対話を拒むことは、けっしてやってはならないことだと思います。
初めから「話にならない」と突き放すのは簡単ですが、それは対立を煽るだけでなんの解決にも至らない蛮行。
対話の繰り返し、対話の積み重ねによる関係の深化と相互理解とこそ、相手による武力行使を抑止するための最善の防衛策だと、国策を誤った我が国の歴史的経験からそう信じたいところです。
「攻めてきたらどうするんだ?」と言う御仁もいらっしゃることでしょう。
その前に、攻めてこさせないためにも、普段からの対話が必要不可欠であると思います。
わかってくれれば、いいんだけれどなぁ。
それにはまず、こちらが相手のことをわかってあげないといけませんね。
対話を重ねることによってお互いにわかり合うことができ、そうやって、平和が保たれていくのだと思います。
それ故に、やはり平和は尊いものだと、今回の徘徊にて確認することができました。
この歌のようであればいいのに。
(※1)大島和典『大島和典[沖縄平和ネットワーク]の歩く 見る 考える沖縄』p,49(2021.07第1刷・2021.9第2刷 (株)高文研)
(※2)(※1)p.50
(※3)(※1)p.54-55
(※4)(※1)p.55
(※5)林博史『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』p.30-31(2025.4第一刷 2025.7第二刷 集英社新書1260D)
(※6)高山朝光・比嘉博・石原昌家編『沖縄「平和の礎」はいかにして創られたか』p.47(2022.6 (株)高文研)
(※7)(※6)p.102
(※8)(※1)p.52-53
(※9)(※6)p.56
(※10)(※6)p.69
(※11)(※6)p.70
(※12)(※6)p.72
(※13)(※1)p.34
(※14)(※1)p.35
(※15)(※1)p.22
(※16)(※1)p.23
(※17)(※1)p.24-25
(※18)伊波園子『ひめゆりの沖縄戦』p.161(1992.6第1刷 2025.7第51刷 岩波ジュニア新書207)
(※19)安仁屋政昭『現代史のなかの沖縄戦 非戦闘員の犠牲者十数万-日本国民にとって沖縄戦とは』p.105(文化評論 197号 p.104-110中 1977.9 新日本出版社)
(※20)半藤一利・加藤陽子・保坂正康『太平洋戦争への道1931-1941』p.81(2021.7第1刷 2021.11第6刷 NHK出版新書659)
(※21)(※20)p.82-83
この記事へのコメント
SUZURAN
ロコときどきキナコ
hana2025
長文での旅のレポを今回も一気に書き上げました事、お疲れさまでした。
沖縄へは何度行ったか分からない程ながら・・・正直申し上げますと、平和の礎とひめゆりの塔への訪問、見学は最初の時の一度限です。来年も年明け早々に訪問予定ながら・・・真面目な気持ちでの訪問ではない気がしてなりません!
まさひろ醸造所近くのホテルは最後の宿泊地だから、そちらへの訪問はあるかもです。
自称よっぱらいさんだけに大量の戦利品ゲットと共に、この度もお疲れさまでした。本記事は特に楽しんで読ませていただきました♪
yamatonosuke
山下清スタイルとてもお似合いですよ(≧▽≦)
そして無性に沖縄そばを食べたくなった・・・
HOTCOOL
私がはじめて知る泡盛も多々あり勉強になりました。
今、世界中で”平和”がないがしろにされようとしている感じがします。
我々の世代で争いごとをとめるため、声を出していかなければなりませんね。
ちなみに、腕時計変えました?
ma2ma2
夏炉冬扇
真面目なご旅行のご様子。南無阿弥陀仏。
お若いなあ、と、拝見しました、お姿。
川鮎くん
平和の尊さも再確認できた旅でもありましたね。
ぼん
Boss365
沖縄の南部にお出掛け、泡盛集め&追悼施設を訪問、お疲れ様でした。
ところで、山下清スタイルで徘徊!!カッケイです。
また、次回は坊主頭でお願い致します!?(=^・ェ・^=)
八犬伝
二郎さんのあのセリフ
今や少ないでしょうね知ってる人も。
あとりえSAKANA
「いろいろ」…収穫があった旅のようですね。
平和が一番です。平和が続くことを願っています。
ヨッシーパパ
skekhtehuacso
skekhtehuacso
skekhtehuacso
それを表現するために、記事が長くなってしまいましたことをお詫び申し上げます。
<(_ _)>
skekhtehuacso
peachやJetstarといった安い飛行機で地方へ行けるから。
山下清スタイルは徘徊時の鉄則です。ただし冬は寒くなるので、Tシャツになりますけれど。
skekhtehuacso
時計は、25年ほど付き合ってきたFossilをオーバーホールした際、メーカーから「部品が確保できないので今回が最後です」と言われてしまったので、新しいクォーツものを買い、併用しています。
skekhtehuacso
ma2ma2様に置かれましては、病気平癒のため、どうかご自愛ください。
skekhtehuacso
でもこの趣味で徘徊できるようにするために、筋トレは欠かせません。
skekhtehuacso
そのために、軍拡よりも対話を重視すべきだと思います。
skekhtehuacso
泡盛を飲むたびにも、行きたくなりますよあたしゃ!
skekhtehuacso
髪が長いと汗を拭くときに大変ですからね。
skekhtehuacso
ガチョーンとか、チンチロリンのカックンとか、びっくりしたなぁもぅ!とか。
skekhtehuacso
酒飲んで酔っぱらい、方々を徘徊できるのも平和のおかげですから。
skekhtehuacso
でもこんな旅行の仕方は、一人で行けばこそだと思います。
日常生活でも、つくづく一人でよかったと思います。
さる1号
飲んで踊って、これも平和だからこそ^^
skekhtehuacso
平和だからこそ、自由に徘徊したり酒を飲んだりできるのですしね。
SWEET
6/23宮古島、石垣島、沖縄本島へと向かうことがあります
TVにラジオで特集を見聞きして知らない自分に愕然とします
平和は尊い、その通りだと思います
お酒もいっぱい集まりましたね
Rinko
こうして真摯に沖縄戦に向き合ってくださる事が本当に嬉しいです。
武器よりも対話です。
その様に言ってくださる方が本当に少なくなってきていると感じています。
またいらしてくださいね!
タンタン
skekhtehuacso
計画を立案している際に知らないことに出くわし、それを調べてから出かけるのも、また楽しいと思います。
skekhtehuacso
でもがんこに平和!、これからも自分が勉強して正しいと確信したことはつらぬこうと思います。
skekhtehuacso
平和であるからこそ、こんないい加減なことばかりしているオイラでも生きていられるのですから。