南の島で、祈りと参りと酒集めと

今回は、とある島に散在する“祈りの場”と“古い墓の跡”とを巡りつつ、
あわせて酒集めもしてやろうという魂胆で出かけました。


どうせ行くならば、暖かいところがいいよね!
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どのような旅になったのか?
以下、長い長い記事の始まり。
もちろん、ウンチク垂れ放題の読みにくい部分もございますので、覚悟しておじゃれ!








★☆2024年11月30日(土)★☆


近所にあるバス停からバスに乗って、
やって来たのは、
羽田空港。
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激混み!
コロナの頃が懐かしや。
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私が乗ったのは、
ANA1079便宮古島行
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飛びます!、飛びます!(坂上二郎さんより)
いいえ、もう飛んでいます。
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あーダメ人間だダメ人間だ。

ANAは機内販売がないことを事前に確認していたから、空港の売店で買って持ち込んできたアル中ハイマー型ダメ人間だ!
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珍しいことに、雲一つないよいお天気!
これは江の島かな?
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富士山のお姿をはっきりと拝むことが叶いました。
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知多半島によぉ、
セントレアがくっついとりゃあすがや!
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そうこうしているうちに、眠気を催した酔っぱらい。
目が覚めると、着陸態勢に入っておりましたよ。
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定刻どおり、11:05に、
宮古空港へ到着。
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まずは空港内の店を物色。
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ニコニコ太郎は、なぜかこれだけ一合瓶。
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豊見親(とぅゆみや)と宮古島まもる君(後で出て来ます)。
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を買ったら、おまけでパンをくれました。
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ヤムイモ焼酎だってさ。
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宮古島の蔵5本セット(100ml瓶)
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さすがに与那国島へ行くことはないだろうと判断し、
与那国島の泡盛・花酒60度)もGETしました。
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展望デッキへ上がってきた酔っぱらい。
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飛行機を眺めながら、先程いただいたパンを食べて、昼食としたのでした。
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甘っ!、
砂糖がそのまんま入っている。
じゃりじゃりした食感と共に、目が覚めるような甘さでした。
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イソヒヨドリだ!
珍しいな!と思って撮影したものの、宮古島滞在中に最も頻繁に見かけた鳥でした。
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時刻は正午を過ぎたところ。
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空港を出て、市街地へと歩いて行ったのでした。
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サトウキビ畑がお出迎え。
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畑の周りに生えている細いやつもサトウキビなのかな?
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甘っ!、
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いい天気!
それに猛暑というほどでもないし、寒くもない。
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ハイビスカスがお出迎え。
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フクギを見ると、沖縄に来た感がいたします。
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この丸い実が特徴。
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アフリカマイマイ!
広東住血線虫の中間宿主なので、けっしてさわってはなりませぬ!
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サトウキビに侵蝕されつつある歩道。
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あ!
あれは、
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宮古島まもる君?
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いいえ、
ひとし君でした。
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鈴木その子さんを思い出しました。
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ジャングル感満載の歩道を歩いて、
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マックスバリュで、
菊之露ゴールド10年古酒をGET!
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街中に近づいてまいりました。
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屋根の上の神様から門番へと役割を変えつつあるシーサー。
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はめ込み式のものもあるのね。
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オオタニワタリ(大型のシダ植物)
青ヶ島(伊豆諸島最南端)では、焼酎(青酎)の麹造りにこの葉っぱを使うんだってさ。
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石垣島では、新芽を天ぷらにして食べるらしい。
宮古島でも食べるのかな?
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そうこうしているうちに、
ホテルに到着。
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9階(最上階)の角部屋からは、眺望絶佳。
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平良港方面も丸見えでした。
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時刻は午後5時前。
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予約してあった、
“ツマンデ呑めるみやこパーラーハイサイ!”さんへ。
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一番乗り。
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まずは生。
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お通しは、スパムとりんごジャムとマスタードのペースト。
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スパムのうまみにジャムがさわやか!
クラッカーいらないかも。
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島野菜のバーニャカウダ。
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野菜にほんのり火を通してある。
野菜の味しっかりでおいしい。
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かつおと酢味噌。
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かつおもおいしい!、酢味噌もおいしい!。
すっぱさひかえめで、むしろナッツのような香ばしさを感じる。
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薬味につけてもおいしい酢味噌。
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バーニャカウダ用の野菜につけてもおいしい。
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これは泡盛だな!
ということで、ニコニコ太郎水割(濃いめ)。
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香りはかすかに華やか。
含むとそれが口の中でふんわりと広がり、かつ鼻へ抜ける。
甘みしっかり、かつ黒麹の香ばしさが角なく穏やかに効いている。
かなりうまい
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三種盛。
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どれもこれも泡盛とバッチリ!
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スベリヒユ。
山形県以外でも食べるのね。
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山形ではお浸しやごま和えにするけれど、これは生。
バーニャカウダと合いました。
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二杯目は、琉球王朝水割り(濃いめ)。
香りほんのり、黒麹の香ばしさしっかりで、辛口!
飲み応えバッチリたわ
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人生初の、ドラゴンフルーツ。
あまり甘くはないところがありがたい。
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〆は宮古そば。
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スープがかなり濃厚!
でも、どこかの脂ギトギトラーメンのようなクドさは、全く感じませんでした。
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麺は噛み応えあるしっかりしたもの。
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三枚肉、やわらかっ!
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紅しょうがをのせて味変。
あたしゃ針しょうがよりも、紅しょうが派です。
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くわっちーさびたん!
苦しいほどに腹いっぱいで、飲み干せなかったことをお詫び申し上げます。
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“ツマンデ呑めるみやこパーラーハイサイ!”さん、
堪能させていただきました。
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こうして、
はじめての宮古島での初日は、
更けていったのでした。
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★☆2024年12月1日(日)★☆


翌朝。
今日もいい天気。
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石敢當が配置されている四つ角。
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那覇や石垣島を徘徊した際は、石敢當は丁字路の突き当りにあったのに。
宮古島では四つ角にあるのね。
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と、思ったら、
丁字路でもなく角でもない、ただまっすぐの道の壁面にもありましたよ。
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沖縄らしい、
コンクリート製のベランダがある建築物を眺めつつ。
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でっかいシーサーを発見!
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滑り台でした。
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久貝(北)の交差点を西へ。
久貝(くがい)という地名、この後で関係してまいります。
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やって来たのは、久松漁港。
“久松”は複合地名で、久貝集落と松原集落を合わせた名称である。とのこと。(※1)
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青い空、碧い海、最高です!
「最高ですか?」と福永法源に問われなくても、最高です!
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まだ朝の9時前ですけれど。
(時計のカレンダーを進めることを忘れておりましたことをお詫び申し上げます。)
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久松漁港に乾杯!
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こんな戦争遺産がありました。
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太平洋戦争では、宮古島は、
米軍の上陸・占領こそなかったものの、
米軍による甚大な被害を受けたそうです。

そのことについて、文献には以下の記載がございました。

 さきの太平洋戦争末期には宮古にもおよそ三万の陸海軍将兵が展開し、三つの軍用飛行場を中心に宮古全域が要塞化していた。さいわい米軍の上陸はなく地上戦こそなかったものの、米英軍の連日の猛爆で平良のまちはもとより集落のほとんどが焼失した。野良仕事はまったくできず、くわえて海・空の輸送路を断たれて武器・弾薬はおろか、食糧や医薬品の補給もなく、民も兵も飢えとマラリアの猖獗で多くの命が失われた。」(※18)

制海・空権を奪われたこの小さな平坦な島で、三万余の陸海軍将兵と同居し、連日連夜米軍の空襲にさらされ、艦砲射撃をうけ、飢えとマラリアにさいなまれたことでは、基本的に沖縄本島と共通している。しかし直接米軍の上陸、占領をうけなかったこと、日本がポツダム宣言受諾を公表した八月十五日ぎりぎりまで無差別爆撃にさらされたこと、日本軍への奉仕活動、慰問活動がそれ以降もつづいていたことなどからすれば、むしろ本土の状況に近かったといえよう。」(※19)


ここ久松漁港へやって来た目的は、
まだまだあるのです。

そのうちの一つが、ここにあります。
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久松五勇士顕彰碑
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久松五勇士について、文献に以下の記載がございました。

日露戦争の真っ只中の1905(明治38)年5月25日、このとき那覇から宮古へ向かう帆船が、ロシアのバルチック艦隊を発見し、宮古島司へ急報した。それを受けた島司は至急海軍に通報することにしたが、当時宮古には電信施設がなかった。唯一の手段は八重山の石垣島までサバニで漕ぎ渡り、そこから電報を発信することである。久貝・松原の両字から5名の若者が選ばれた。垣花善(30歳松原区長)、垣花清(23歳善の弟)、与那覇蒲(26歳)、与那覇松(24歳)、与那覇蒲(22歳)ら一行は石垣島まで130kmの海をサバニで力漕し、ようやく島に渡って電信局にたどり着き、打電させた。
 敵艦発見の電報は、哨艦信濃丸の発見より遅れたため、この事実は長い間社会的には知られずにいたが、後に顕彰運動が起こり、昭和5年、10年の海軍記念日に顕彰され、新聞の報道、更には教科書にも掲載されてその名は広められた。」(※2)

顕彰碑には、五名の名前が記載されておりましたよ。
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同姓同名?
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なお、サバニサバネとも)については、以下の記述がありました。

宮古には実際にフネに用いられているサバネと云う刳船が今もある。独木を刳り抜いて作った軽い舟で漁業に使って軽快至便である。サバネの語はサブネ(小舟)から来たであろう。サザリ(小砂利)、サイル(小魚の名)等のサと同じく、サは小を表す。些細な事のサも同意である。それでサバネは小さなフネと云うことができる。」(※3)。

この五勇士碑の上の部分がきっと、
サバニ(サバネ)なのでしょう。
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そして五本の柱が、五名の若者たち一人ひとりを表現しているのでしょう。
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この話、まちがいなく昭和前期における国威高揚に利用されたことでしょう。
そして今日では、その扱いについて賛否両論あることも想像できます。

でも、きっと、五名の若者たちは
“「国のために役立ちたい」という純真な心でサバニ(サバネ)を必死に漕いだ“
と、あたしゃそう思いたい。

あくまでもこの行動は、アジア各地が欧米の植民地となっていた当時、同じくアジアに属する日本がそれら欧米の一等国と肩を並べるべく挑んだ日露戦争に対して、宮古島の人たちが一国民として協力しようと主体的に思った“当時の人の真心の具現化”であろうと、そう思いたいですよ。
そうでなけりゃ、サバニ(サバネ)という木をくり抜いただけの小舟に乗って130km(2日間だとか)を漕ぎ続けるだなんて、到底できやしないでしょうから。
誰かに命令されて、仕方なくやったんじゃ、途中で挫折することまちがいなし。

選挙ではいつも左翼勢力に投票するオイラであっても、そう思えるお話なのでした。
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久松五勇士顕彰碑の見学はこれで終了。
次の目的地へと向かいました。
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これこれ!
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これは、
“ミャーカ”という、
宮古島特有の古いお墓。
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いいですか!、みなさん。
“ミャーカ”
ですからね!
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(友情出演)


“ミャーカ”とは、石組墓
すなわち比較的大きな石材を用いて,平地上に造られる石造墓石棺の周囲を石組みが囲う特徴を共有する。(※4)ものとのこと。
その語源は、「石垣で囲んだ内部を「ミャー」と称したことによる」(※4)のだとか。

このミャーカは宮古に沖縄式の墓地が造られるようになるまでの宮古在来の風葬墓地遺跡(※5)なのだそうです。

沖縄本島の古いお墓は、基本的には横穴式。
一方でミャーカは「巨石囲いの中央に棺を安置して、その上に一枚岩をかぶせています」(※6)とあるとおり、
穴を掘らず、古墳のように土を盛ることもなく、平らな場所に設けられたそうです。
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そして今は失われてしまったものの、「さらに全体として屋根様のものでおおわれていたことを示すようなたたずまいをみせています。」(※6)とあることから、かつては屋根が付いていたのでしょう。

ミャーカが造られ始めた年代については、2説あるそうです。

稲村賢敷氏の「宮古在来の風葬墓地で、15世紀末に頃までに巨大なものへと発達、その後沖縄本島の影響を受けて横穴式へ移行」、金子エリカ女史の「元明動乱をさけて、1360年頃から優秀な技術を持って大陸から渡来した一群の人々によってつくられた」との両説がある。」(※2)
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あらためて久松のミャーカを見てみると、
石灰岩で造られた石垣があって、
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その中には、石棺らしきものがありました。
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西側は、どうやらイビ(威部)になっているそうです。
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ミャーカから離れて北へ行くと、
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御嶽(うたき)と思われる祈りの場がありました。
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県道192号を渡って、久貝から松原へ。
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松原地区にも、ミャーカがございます。
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ここは石垣と石棺とがわかりやすい!
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しかしその北側にあったもう一つのほうは、
石垣こそ確認できるものの、
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石棺の存在は、かろうじでわかる状態。
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石碑があるということは、御嶽になっているのかも。
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久貝・松原両地区のミャーカ詣ではこれでおしまい。
今朝来た道を久貝(北)交差点まで引き返していったのですが、
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小規模な御嶽を発見。
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ママイヤ!
じゃなくて、パパイヤ。
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久貝(北)交差点まで引き返し、
島の駅みやこへ。
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まずクリア!
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今度は島の北側へ、海を目指して歩いて行きました。
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パイナガマビーチへ!202412miya153.JPG

碧い!
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足元から碧い!
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珊瑚の欠片がいっぱい。
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砂浜もあるでよ!
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砂が白い!
うちの近所にある海(東京湾)とはぜんぜんちがう!
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こういう海、
年に一度は見たいなぁ。
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パイナガマビーチから離れて歩いて行った酔っぱらい。
次の目的地を発見。
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大立大殿(うぷだてぃうぷどぅぬ)ミャーカ
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近年における道路工事の際に周りが掘り下げられて、ここだけ当時の高さで残ったのでしょう。
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階段を上がっていくと、
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石棺のみのお姿と化しておられました。
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大立大殿ミャーカを離れて、次の目的地へ向かう酔っぱらい。

モモタマナ。
最近になって、「おきなわフチ歩き」(BSよしもと)で覚えました。
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目的地へ到着。
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これは、
仲宗根豊見親なかそねとぅゆみゃ)という、
15世紀末から16世紀にかけて宮古島を支配した人物
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仲宗根豊見親の“豊見親”は尊称で、「豊見は響動(とよ)むの当て字で鳴り響く、よく知られたの意であり、親は文字通り尊称である。」(※7)とのこと。

この仲宗根豊見親、なんでも子供の頃から優秀で、当時の支配者にその才能を見いだされ、次第に信望を得て“豊見親”となり、かつ琉球王府からもその支配を認められたのだとか。

 ある日、当世の主大里大殿が赤牛にまたがり、多くの供をつれて白縄の慰(漁?)に出かける途中、一人の童子が一つかみのニンニクを差し出した。大殿は二~三の問答を通して童子の非凡なるを知り、つれ帰った。童子の名は空広スラビュウ、年は七つ。空広はこの時以来大殿のもとで養育され、十七歳で執権職になったというから、その非凡のほどがうかがえよう。大殿の死後、その子能知伝盛が主長職をついだが、中山朝貢の帰途台風にあい久米島で死んだ。このあと人びとの信望は空広にあつまり。“仲宗根豊見親”とよんで、あがめとうとんだというのである。」(※8)

 ともあれ仲宗根豊見親は十五世紀末、大里大殿の子能知伝盛のあとをうけて宮古の支配者になったばかりでなく、中山から主長に任ぜられ、名実ともに宮古を代表する実力者として歴史の表舞台に登場することになる。」(※9)

 琉球王朝は、また仲宗根豊見親夫人宇津免嘉を大安母職に任命、宮古中のツカサ、御嶽を取りしきることで、いわば信仰の面からも人びとを支配した。仲宗根豊見親夫妻を宮古におけるそれぞれの最高の地位である「主長」「大安母」職につけて、祭政両面から宮古を完全に琉球王朝の体制にくみこんでいったのである。」(※10)

私は今年(2024年)の1月に石垣島へ行き、旧ブログにてそのレポートを公開いたしました。
その際、15世紀末にオヤケアカハチなる豪族が石垣島で琉球王府(中山)に対して反乱を起こし、琉球政府が1500(明応九)年に追討軍を送って鎮圧したことを紹介いたしました。
その追討軍の先頭に立って進軍したのが、この仲宗根豊見親とのこと。

この話はこの程度にとどめておきますが、
このあとで、この話に関係する建造物が出てまいります。


その墓ですが、
琉球王府の文化と宮古島の在来文化の折衷様式なのだそうです。

 仲宗根豊見親が父真誉ヌ子のために築造したという。(中略)宮古在来の風葬様式をのこすといわれる“みゃーか”と、沖縄本島様式の横穴式の折衷墓である。内部はおよそ十坪ほどで、石垣をきずいて前後二つの部屋に仕切られている。手前は棺の安置場所、奥は洗骨後の骨ガメを置いたものと考えられる。様式等から、宮古と沖縄本島間のしげき文化の交流を示す遺跡だという(一九五六年二月二十二日県指定史跡)。」(※11)
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墓前にて、
うーとーとー。
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墓の脇には、下へ降りる石段がありました。
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洗骨の際に使用した井(ガー)とのこと。
今でも水が湧いていて、エビや魚がいました。
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さらに歩いて行くと、
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知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみや)
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うーとーとー。
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知利真良豊見親墓の域内にはなぜか、
「故陸軍上等兵下地某」の墓碑がありましたよ。
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この辺りは、古くからの墓地らしい。
そういう方角なのかな?
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これなんか、かなり古そう。
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最後の墓は、
アトンマ墓(アトンマ=後妻)
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うーとーとー。
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墓参りを終えた酔っぱらい。
石畳の坂へ、
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その坂の下には、
「平和の犬川」なる碑が。
これは調べていませんでした。
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そしてその隣には、小規模な御嶽がありました。
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その御嶽にあった井(ガー)。
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石畳の坂を上ると、
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宮古神社
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宮古神社は御嶽からの変容ではなく、
初めから神社として建立された場所。

元々宮古には神社はなく、明治以降、県外との交流が密になるにともない、さらには国家神道の影響もあって御嶽が神社風にかたちをととのえ、名称まで変ってきたものと思われます。御嶽からの変容ではなく、初めから神社として建立されているのは仲筋の多良間神社と西里の宮古神社の二社のみです。」(※20)

石段を上がると、左側に鳥居と拝殿とがありました。
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拝殿にて二礼二拍手一礼。
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宮古神社への参拝を終えて、石畳の坂を下りた酔っぱらい。
そこにあるのは、
漲水御嶽はりみずうたき・びゃるみずうたき
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御嶽(ウタキ/八重山ではオン)については、旧ブログにおける石垣島訪問記にて解説しておりますので、そちらをご参照下さい。

ただし石垣島の御嶽(オン)は「人間の欲望から出ているもの」(※12)であったのに対して、宮古のそれは「一般に御嶽は祖先の墓であり、五穀豊饒や産業等に貢献した先人をまつってあったり、航海安全や里人の守護神たる里御嶽などに大別することができるようです。」(※13)とあるとおり、人の霊を“神”として崇拝する場所が大半であるみたいです。

その中でも漲水御嶽は、
宮古にある御嶽の筆頭格なのだとか。
というのも、
ここで祀られている

“古意角くいつぬ・姑依玉くいたまの二神”は、
宮古島を誕生させた神様であるから。

〔漲水御嶽(びやるみずうたき)〕 漲水港頭の漲水御嶽(漲水神社)は、古意角・姑依玉の二神を祀れる所であって、二神の天降りまして宮居し給うた天久崎の霊地である。中世に至り目黒盛豊見親が争乱を治めて宮古島内を統一し、神祇崇敬の念を起こさせるため各地の御嶽を修補した時は、殊にこの霊地に重きを置いたが、琉球中山に服属後、仲宗根豊見親が八重山征討に凱旋するや、境内を整頓し神威を増した。その後、琉球国社の待遇を受けて拝殿等の整備成り大阿母(神職)は島内の十六御嶽の公定された十六人の神司を率いて親しく神事を執り行い、島民一般に崇敬厚かったが、明治十二年、廃藩置県の後は漸く頽廃せんとしたのを、大正七年、島内の敬神者は拠費して建物その他の大改造をなし、大いに面目を一新した。」(※14)

人がまだこの世に生れない久しい昔、古意角(または恋角)という男神がいた。あるとき、下界に下って島をつくり守護神になりたいと、天帝に願い出た。天帝は天の岩戸の先を折って与えた。古意角が、その岩を青々とした大海原に投げ入れたところ、島ができた。古意角はさらに天帝に乞うて、女神姑依玉(または恋玉)と連れそうことを許された。こうして一切の有情・非情が生じ、宮古島が生れたという。この二神が初めて降り立った地が漲水の天久崎といい、のちに御嶽を設けて二神をまつっていると伝えている。」(※15)

その漲水御嶽には、賽銭箱が置かれておりました。
ということは、誰でも気軽に参拝してよろしいという意味でしょう。
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うーとーとー。
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この石垣は、仲宗根豊見親がオヤケアカハチ追討成就を賀して創建した物なのだとか。
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境内の南方を限る石垣は皇紀二一六〇年1500年:ブログ筆者追記)後土御門天皇明応九年、仲宗根豊見親が八重山島の主長赤蜂(あかはち)を討ち凱旋した時寄進したもので、我が宮古島内に於ける最古の史的建造物の一つである。」(※16)
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その石垣の上では、ニャンコがお昼寝中でした。
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人の手が届きそうで届かないところで寝てやがった。
邪魔されない距離を知っているんだね。
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漲水御嶽の参拝を終えて東へ歩いていくと、
これまた小規模な御嶽を発見。
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正午近くになって腹が減ってまいりましたが、大丈夫!
近くにスーパーがあることを調べてあるから。
(時計のカレンダーを進めることを忘れておりましたことをお詫び申し上げます。)
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休みかよ!
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定休日らしいスーパーと道路を挟んだ反対側には、これまた御嶽がありました。
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うーとーとー。
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さらに歩いて行くと、
仲屋金盛ミャーカを発見。
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石垣はわかるものの、
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植生により、石棺は確認できず。
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よく、廃線跡を散策するには、雑草が枯れる冬がよいと言われますね。
でもここ宮古島では、それはまったく通用しないみたいでした。

ユーラジ御嶽
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船立堂(船立御嶽)
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うーとーとー。
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背後にはイビ(威部)がありましたが、
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そのさらに後ろは、広場になっておりました。
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さらに歩いて、ガジュマルが生い茂る道へ、
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盛加井ムイカガー)へ、
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真ん中の“・”は、落書きでした。
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盛加井は、階段を103段降りた場所にあるという湧水池。
宮古島には、このような深い場所にある湧水が、少なからずあるそうです。、

その理由は、
★石灰岩でおおわれた宮古島では雨水が浸透しやすく、地下水が豊富にあること。
★浸透した地下水は石灰岩層のその下にある島尻層群によって行く手を阻まれ、貯溜すること。
★石灰岩層と島尻層群との境目に当たる深い場所で、水が湧き出ること。
なのだとか。

このことについて解説している文献の記述を、以下に紹介いたします。

 平良のまちの東のはずれに盛加井(むいかがー)とよぶうりがー(洞井)がある。水道の普及する以前、生活用水はおもに天水とこのような名所に点在する洞窟井戸に求められた。幾世紀もにわたって素足で踏みしめてきて盛加井の石段は百三段。泉のあたりは昼なお暗く、文字通り水汲みに従事した婦女子の苦難の足跡を刻んでいる。」(※21)

 第1の理由には、宮古島の地形が関係する。宮古島は、低平な地形をしていて山が無いため、地上に降った雨のうち、地表を流れて海に流れ出す比率が低い一方、地表から地下へ浸透する比率が高い。日本本土の場合は、山がちな地形が多いため、降水のうち地下に浸透する比率は通常数%程度と見積もられているが、宮古島の場合には、その比率が4割に達すると推定されている。この浸透率と宮古島の面積および降水量を用いて、宮古島に降る雨のうち地下に浸透する量を単純計算すると、年に約1億3千万トンにも達する。
 第2の理由には、宮古島の地質が関係する。宮古島は地質的に水を透しやすい石灰岩で覆われた島であるが、その石灰岩の下には、きわめて水を透し難い島尻層群と呼ばれる泥岩と砂岩からなる地層がある。したがって、宮古島に降る雨は石灰岩は容易に透下していくのだが、その下の島尻層群にいく手をさえぎられ、石灰岩の孔隙(こうげき:小さな穴やすき間)に溜まるという仕組みになっている。」(※22)


それではまいりましょう!
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どうやらここ(鳥居の右外側)が入口のもよう。
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下へ降りて行きました。
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ユスリカだらけ!
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やっぱり遺跡巡りは冬に限る!
もし夏に来れば、まちがいなく蚊に全身を刺されることでしょうよ!
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だんだん暗くなってまいりました。
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怖いよ~!
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昔の人たちは、こんなところまで水を汲みにきていたのね。
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戻るのも一苦労。
ということは、満タンの水甕を担いで上るのはもっと大変だったことでしょう。
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無事戻ってまいりました。
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盛加井の隣には、
盛加井御嶽がありました。
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ここもなかなかのジャングル感。
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ここでうーとーとー。
部外者は入ったらダメなパターンのやつだぞこれは!
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盛加井御嶽の参道からは、
盛加井の奈落の底へ通じる道が見えました。
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盛加井の見学と、盛加井御嶽への参拝とを終えた酔っぱらい。
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沖縄らしい建築物を眺めつつ、
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そういえば、
腹が減っていたんだっけ!
(時計のカレンダーを進めることを忘れておりましたことをお詫び申し上げます。)
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ファミマを発見。
もうここでいいや!
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タコス巻を買って、
駐車場の隅でいただきました。
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おいしい。
辛いのかと思ったけれど、それほどでもない。
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腹ごしらえを終えて、本日の最終目的地へ。
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と、思ったら、
途中で御嶽を発見。
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このガジュマル林の中が、本日の最終目的地。
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アツママ(阿津真間)御嶽
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賽銭箱が置いてあるということは、
参拝してもよいのでしょう。
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大変なことになっているみたい。
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こりゃひどいわ。
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これで本日の徘徊計画はすべて終了。
ホテルに戻ったのでした。
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部屋で休んでいたら、
めったに鳴らない電話が鳴って・・・、
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予約していた居酒屋、
臨時休業だってさ・・・。
(;´д`)トホホ

時刻は午後四時。
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午前7時過ぎから午後3時過ぎまでひたすら歩いたことから、これから新たな酒場を探す気力など残っていやしない。
そのせいか、臨時休業と聞いたとたん、はやく飲み食いしてさっさと眠りたくなってしまった酔っぱらい。



しかたがない。

人生初の“ジョイフル”利用と行きますか。
(関東でジョイフルって言ったらホームセンターですからね(ジョイフル本田))
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はよ取らんかい!」と、
料理を運んできたロボットに命令される酔っぱらい。
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ビールとサラダ。
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泡盛(銘柄不明)。
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冷奴。
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餃子。
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1,760円也。
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あたたかいお茶をいただけたのはうれしいところでした。
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帰りに立ち寄ったファミリーマートで、前割の泡盛をGET!
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ホテルに戻って、ちょっと飲んで、
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宮古島での二日目は、
さっさと寝て終わったのでした。
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★☆2024年12月2日(月)★☆


最終日。
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この日はバスに乗車。
北給油所前バス停より。
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8:53発の系統4番に乗車。
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定刻通りにやって来る田舎の地方のバスあるある。
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料金箱は手動式。
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整理券なし!
運転手さんに乗った場所を告げ、料金表で運賃を確認して支払うシステム。
要するに、そんなやり方でも処理しきれるほどしか利用されていないのでしょう。

前面展望席のはずが、
低床車のため、展望は無理でした。
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初日に歩いて来た道を、バスで引き返して行ったのでした。
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洲鎌バス停にて下車。
310円でした。
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お茶購入とトイレ利用とで、Aコープへ。
その駐車場で、ニャンコご登場!
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耳カットされた地域猫。
警戒心ゼロでした。
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遊んでくれてありがとうね。
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サトウキビに占拠されつつある歩道を歩いて、
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洲鎌農村公園へ。
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洲鎌農村公園の東側にあるのが、
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川満大殿(かわみつうぶとぅぬ)の古墓
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これもミャーカ
石垣は確認できるものの、
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石棺の存在は・・・。
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石垣を覆うほど成長した樹木が、歴史の長さを物語っておりました。
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川満大殿ミャーカを離れて、サトウキビ畑の中を歩いて行った酔っぱらい。
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サトウキビしか見えない。
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ツノジ児童公園へ。
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かけっこも鬼ごっこも砂遊びも、すべて不可能。
草に占領された児童公園でした。
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ツノジ児童公園の反対側。
道を挟んだサトウキビ畑の中に、
“神泉いなで井改修之碑”を発見。
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「平和の犬川」と同様に、
これも調べておりませんでした。
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これが“いなで井”?
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それともこっちの、
盛加井のミニチュアみたいな穴のほう?
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いなで井の近くにあったのが、
ツヌジ御嶽
ココを目指していたのでした。
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ツヌジ御嶽は、
下地神社とも呼ばれているみたい。
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ガジュマルに覆われた神域。
大和(ヤマト)の神社にはない、自然の神秘を感じるような雰囲気でした。
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拝殿にてうーとーとー。
この日は地域のご婦人方が、一年間の無事に感謝をささげる儀式をなさっていらっしゃいました。
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この石碑、
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途中で折れています。
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折れたのは、忠魂碑。
大和(ヤマト)の流儀を押し付けたことに対する神様のお怒りか?
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ツヌジ御嶽への参拝が叶い、
清々しい気分でお別れいたしました。
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再びサトウキビ畑の中を歩いて行った酔っぱらい。
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ソテツだ!
しかも実がなっている。
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赤いソテツの、実も熟れる頃♪
加那も年頃~、加那も年頃、大島育ち~♪
それ沖縄じゃなくて鹿児島県。
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なーんてふざけていたら、
道に迷っちゃった!
地図に書いていなかった道が出て来て、曲がる場所をまちがえた。
サトウキビ畑の中って、サトウキビしか見えないから見当がつかず、怖いこと怖いこと!
開店前のタコス店で道を教えてもらって、なんとか想定ルートに復帰いたしました。
どうせ酒気帯びだったんだろ。

想定ルートに復帰し、歩いていると、
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盛島明長生誕之地だって
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戦前の政治家らしい。
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裏には解説がありました。
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“宮古王”ってアンタ・・・、
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盛島さんの隣には、小さな御嶽がありました。
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簡素でしたが、張られていた縄は新品。
きっと地元の人たちに大事にされているのでしょう。
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Aコープ下地店へ戻ってまいりました。
さきほどニャンコに遊んでもらった場所です。
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そのAコープで、ランチョンミート(ポーク)と多良川2合瓶とをGET!
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まだ11時前ですけれど、
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精進落とし。
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精進落としをした直後なのに、
また御嶽に出会ってしまった酔っぱらい。
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ウィズスマヌスの神?
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またあった!
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入江らしき場所には、
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チヌ(クロダイ)らしき群れがいました。
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入江があるということは、
海が近いということ。
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与那覇湾
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砂浜はないみたい。
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少し濁っているかな。
それでも碧さを保っているね。
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与那覇湾沿いに歩いていると、
赤い鳥居が目印の、
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赤名宮
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真新しい佇まい。
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賽銭箱ありなので、参拝可。
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形態こそ神社でも、御嶽なので、
柏手を打たずにうーとーとー。
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脇にあった祠。
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赤名宮の背後には、イビ(威部)がありました。
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この後、川満地区へ。
最後に参拝すると決めていた、とある御嶽を目指していたのですが、
実際には、全部で7カ所もあるんだってさ!
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おいおい!
女神マリアって、カトリックかよ!
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体力的にも時間的にも、すべてを回ることは不可能。
そこで最も近くにあった御嶽と、当初より訪問を計画していた御嶽との2か所だけ参拝することにいたしました。

最も近くにあったのは、
ウプカー御嶽
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祠などは見当たらず。
この湧水自体が御嶽なのかも。
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ウプカー御嶽を後にして、
川満漁港へやってまいりました。
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与那覇湾にあるので、碧い色がきれいな漁港。
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私が最後に参拝する御嶽として目指していたのは、
スゥーフツ御嶽
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こちらがそのスゥーフツ御嶽。
祠もなければ、祭壇もなし
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このブロックが祭壇の代わりなのか?
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石垣島で御嶽(オン)を巡った際には、とある文献に以下の記述を見つけました。

 御嶽は、祈りや祭りを行う「祭祀空間」であり、地域の様々な「伝統芸能」を奉納する「文化的空間」でもある。神司(つかさ)の祈りの場である「イビ」には素足でしか入れない御嶽もある。イビは拝殿と繋がっており、森を最も神聖視する祭祀空間となっている。
 御嶽には、日本本土の神社で祭礼を行う本殿にあたる拝殿があるが、そこに御神体はない。道教の廟のような神像やご神体もなければ、仏教の仏像や経典のようなものもない。すなわち、御嶽は建築物の中に神象を奉るものではない。そこは、鬱蒼した森に吹く風、鳥、老木の威厳など、五感で体験できる自然信仰の祭祀空間である。同時に、時代や社会を超え、日々の荒波を生きる人々の魂を蘇らせる森の空間でもある。」(※17)

川満地区の皆さんが代々ここに神が宿ると信じ、祭祀空間として大切に崇拝してこられた自然信仰の場所。
それこそが、スゥーフツ御嶽の本質なのでしょう。
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御嶽の本質を体現した存在であったスゥーフツ御嶽。
それがこの旅の最後に参拝した御嶽となったのは、果たして偶然だったのでしょうか?


これで御嶽やミャーカの訪問はおしまい。
あとは空港へ向けて歩いて行くのみです。


初日に出会ったひとし君。
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生きてさえいれば、また会えるだろう。
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最後に立ち寄ったスーパーで、
沖縄本島(西原町)の蔵元さんのセットもの泡盛をGET!
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宮古空港へと戻ってまいりました。
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チェックインカウンターで搭乗券を手配。
スマホ持っていないんですけれど何か?
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時刻は12:45.
そりゃ、腹が減るはずだわ。
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レストランへ直行!
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ビールセットをまず注文。
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このキムチ、
ものすごくおいしい!
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浅漬けでそんなに辛くなく、野菜シャキシャキかつうまみしっかり!
ここで手作りしているんだってさ。
単品でおかわりしてしまいました。
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ビールをさっさと空けて、泡盛へ移行。
菊の露一合。
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菊の露はしっかりいていて、味わい深いね。
それなのに、クセや重さはまったくなし。
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菊の露もキムチとバッチリ!
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人生初の、ふーチャンプルー。
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麩の穏やかなうまみを活かすべく、あえて薄めの味付なのかな?
これおいしい!、油抜きした油揚げでも代用可能かも。
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そのふーチャンプルーに、コーレーグース!
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いいね!
ちょい辛で引き締まりました。
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〆はチキンカツカレー。
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中辛レベルの、万人受けする味付け。
こういうレストランのカレーをバカにする奴とは友達にはなりたくないな。
一人も友達いないくせに。
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チキンカツは外カリカリの中ジューシー!
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それでも菊の露は、けっしてカレーに負けてはおりませんでしたぞ!
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カレーがかかっていないチキンカツにも、
コーレーグースをかけてみちゃったりなんかしちゃったりして。
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辛さとアルコールの感じとが、カツに軽さをもたらしてくれました。
これいいね!
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あー、おいしかった。
くわっちーさびたん。
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ここも食後にあたたかいお茶をいただけました。
これがあるだけで、ホッとします。
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ちょうど時間となりました。
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宮古島よ、さようなら。
生きてさえいれば、いつかまた来られるさ。
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★☆2024年12月4日(水)★☆



宮古島から発送した荷物が到着。
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成果はそれほどでもなかったものの、
楽しかったからいいや!
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★☆あとがき★☆

今回、宮古島を訪問して思ったことを一つだけ、ここで披露いたします。
それは、“御嶽(うたき)”についてのこと。

今年の1月に石垣島を訪問した際にも、石垣島に存在する御嶽(オン)を訪問いたしました。
でも、その際に見た御嶽は、広い敷地を有し、かつ大きな拝殿があるものがほとんどでした。

一方で今回訪問した宮古島では、漲水御嶽やアツママ(阿津真間)御嶽、ツヌジ御嶽(下地神社)、などは比較的大規模でしたが、それら以外の多くはどれもみな、かなり小さく、簡素なものでした。
しかも中には祠や祭壇があるだけのものや、何もない場所すらありましたよ。
おそらく名前すらない御嶽もあったことでしょう。

ここからは、私の予想です。

石垣島の御嶽は、村の守護神、航海安全の神、牛馬繁盛の神、農業発展の神、雨乞いなど、「人間の欲望から出ているもの」(※12)でしたが、その欲望を叶えてもらうためにはある程度立派な御嶽にする必要があり、かつ叶えてもらいたい集落の人たちが一致結束して神様が宿るにふさわしいものを建設したのではないでしょうか?

一方で宮古島の御嶽は「一般に御嶽は祖先の墓」(※13)とあり、祖先は一族/家族ごとに異なるわけです。
それ故、一族/家族のためにもともと存在した家や墓場、あるいは農地などの片隅を御嶽と定めて、その一族/家族の限られた人たちだけがひっそりと参拝する存在だったのかもしれません。

あくまでも、私の予想ですけれどね。



齢五十を過ぎて、
“御嶽”という存在にハマりつつある酔っぱらいだったのでした。




(※1)沖縄の宮古島100の素顔編集委員会編『沖縄の宮古島100の素顔 もうひとつのガイドブック』p.116(Ⅵ 宮古島の遺跡と文化財 69 砂川幸夫執筆『久松五勇士物語』より 2008.01初版 2021.03第4版 一般社団法人東京農業大学出版会 )
(※2)(※1)p.115(Ⅵ 宮古島の遺跡と文化財 67 下地和弘執筆『久松ミャーカ(巨石墓)群』より)
(※3)慶世村恒任『新版 宮古史伝』p.207-208(1927.2初版 2008.11新版第1刷 2022.4第2刷 株式会社冨山房インターナショナル)
(※4)栗木崇『宮古島諸島地域における外囲を有する石組墓(ミャーカ)に関する一考察 』p.237(国立歴史民俗博物館研究報告 第226巻 p.237-250 2021年3月)
(※5)久貝弥嗣・栗木崇『宮古島諸島地域における外囲を有する石組墓(ミャーカ)の調査』p.86(国立歴史民俗博物館研究報告 第226巻 p.85-110 2021年3月)
(※6)仲宗根將二『宮古風土記』p.66(1988.1初版(ひるぎ社) 2012.9復刻 おきなわ文庫)
(※7)(※3)p.374(仲宗根將二執筆『〔解説〕慶世村恒任と『宮古史伝』』p.369-383より)
(※8)(※6)p.239-240
(※9)(※6)p.242
(※10)(※6)p.248
(※11)(※6)p.251-252
(※12)色川大吉『御嶽信仰と祖先崇拝-八重山群島石垣島の場合-』p.162(東京経済大学人文自然科学論集 通号94 p.162-150 東京経済大学人文自然科学研究会)
(※13)(※6)p.62
(※14)(※3)p.3-4
(※15)(※6)p.369-370
(※16)(※3)p.4
(※17)李春子『八重山の御嶽-「祈り」と「祭り」の祭祀空間』p.130(李春子編著『八重山の御嶽-自然と文化』p.130-199 2019.3 榕樹書林)
(※18)(※7)p.381-382
(※19)(※6)p.277-278
(※20)(※6)p.183
(※21)(※6)p.50-51
(※22)(※1)p.23(Ⅰ 宮古島ってどんなところ? 10 中西康博執筆『宮古島に地下水が溜まるわけ』より)

この記事へのコメント

  • hana2024

    宮古島へお出かけされていたのですね。
    それにしても、これだけの長さ!レポ一本によくぞ、まとめられましたね!
    私の場合は、10年あまり前で、泡盛はオマケでしたけど。宮古の海のあいからわずの美しさ!
    呑んで、食べた・・・料理の数々、見るからに美味しそうで・・・溜まりませんね!
    2024年12月07日 00:00
  • HOTCOOL

    素晴らしい旅&飲み日記。
    御嶽ってなんか神秘。
    2024年12月07日 05:20
  • newton

    沖縄と言えば、泡盛とオリオンビール、堪能されたみたいですね。
    2024年12月07日 16:07
  • てんてん

    超大作ですね♪
    宮古島のソテツはすごいたくさんの実がなるんですね♪
    2024年12月07日 22:14
  • t-yahiro

    ひとし君がその子ちゃんだったくだり
    不意を突かれて鼻から液体が吹き出ました。
    2024年12月08日 00:15
  • さる1号

    いこみゃーか&X印
    何だろうって思っていたけれど、そういうことだったのですねぇ^^;
    砂糖そのまんま入ってるココア渦巻き、甘党でも辛そうだ^^;
    2024年12月08日 08:54
  • リュカ

    今は旅行が出来ないので、じっくりじっくり読ませていただきました^^
    歴史も本当に考えさせられちゃう。
    いつかこのあたりも旅してみたいな〜。
    2024年12月08日 10:31
  • Boss365

    こんにちは。
    スクロールで目がチカチカ(爆)・・・
    途中で黒猫の旦那を目撃!!再訪します!?(=^・ェ・^=)
    2024年12月08日 11:36
  • skekhtehuacso

    hana2024さん、分割してしまうと、読んでいても臨場感がなくなってしまうものですから、いつも一つの旅行ごとに一本で仕上げています。
    いろいろ食べましたが、2日目に予約していた居酒屋の臨時休業は痛かった!
    2024年12月08日 19:21
  • skekhtehuacso

    HOTCOOLさん、宮古島に御嶽がこんなにたくさんあるとは知りませんでした。
    また石垣島を徘徊した際は、大和(ヤマト)における神社のような規模だったのに、宮古島では、街角にあるお地蔵さんかお大師様のような小さなものにたくさん出会うことが叶いました。
    いつか沖縄本島でも、御嶽を巡りつつ徘徊してみたいものです。
    2024年12月08日 19:25
  • skekhtehuacso

    newtonさん、オリオンは沖縄で飲んでこその味でしょうね。
    泡盛は地元の料理と合わせてこそだと思います。
    2024年12月08日 19:26
  • skekhtehuacso

    てんてんさん、ソテツに実がなっている様子を実際に見たのは、実はワタクシ初めてでした。
    普通はもっと少ないのかな?
    2024年12月08日 19:27
  • skekhtehuacso

    t-yahiroさん、それを狙って、くだらない記事を毎日書き続けているのでございます。
    2024年12月08日 19:28
  • skekhtehuacso

    さる1号さん、ミャーカへ行こうと決めた瞬間、新間正次を思い出しました。
    じゃりじゃりした食感のクリームは超甘でした。
    2024年12月08日 19:31
  • skekhtehuacso

    リュカさん、あおくんうみちゃんが大変なときですから、しかたがありませんね。
    でも私も旅行へ行くよりも、猫たちと一緒にすごしたいと思いますよ。
    かわいいもん。
    2024年12月08日 19:35
  • skekhtehuacso

    Boss365さん、一旅行の記事を分割して掲載すると、臨場感がなくなってしまうのです。
    どうせたいしたことは書いていませんから、テキトーにお読みいただき、ときどき鼻でクスリと笑っていただければ幸甚です。
    2024年12月08日 19:36
  • Rinko

    まもる君だけじゃなく、ひとし君もいるんですかっ!ヾ(≧▽≦)ノ
    2024年12月09日 07:46
  • skekhtehuacso

    Rinkoさん、私も知りませんでした。
    どうやら何体かあって、それぞれ名前がちがうみたいですね。
    2024年12月10日 21:47